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2007年7月8日日曜日

水の科学

近頃、疑似科学(pseudo science)の話題が良く出てくるな〜と思っていたら、知り合いもはまっていた(--;
ほとんど洗脳状態らしく、大丈夫かなぁ…と心配になっていたりするのだが、率直に指摘しても「これは違うから、是非試してみて欲しい」というようなリアクションでちょっと困った(汗

「ルルドの水」の話だったら、まあそういう話もあるわね、程度ですむ。人々の崇敬を集めたり、宗教的な意味合いがあるような物については、それ以上話を突っ込むつもりはあまりない。宗教的意味合いにまで他宗教の者が土足で入り込むようなマネはしたくないからだ。(うっかりすると戦争だし)

でも、宗教や科学に名を借りた、その実、売らんかな的な商売はいかがなものか。
そういえば、こんな東京新聞のコラム記事が有りました。

東京新聞 コラム 筆洗
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2007061502024295.html

科学と疑似科学の違いは、非常にメタな議論になるので難しいことこの上ない。私も未だよく分からない部分は多いのであるが、直感的には「科学は疑うことを推奨し、疑似科学は信じることを強要する」っていう所かなぁ…

科学の信奉者たる学者は、まず学生の時代に「自分の信じていることを疑ってみることを教育される」と言っても良いかもしれない、と私は思っている。だから、多少頭がおかしくなる人もいるし、どんな学生でも真剣に考える人は頭がおかしくなる時期もあるような気がする。(この辺は経験的に考えていることだが)

学者の議論は時に陰険で重箱の隅をつつくような議論になることがあるが、それは厳密な論理に基づいて検証されるべきであるからそうなるんだろうなと思っている。(別の見解もあるかもしれない)

まあ無矛盾に近くなるように…ということでやっているのかもしれない。時々これがしんどくなるので、かなり凹むこともあるんだが。(ゲーデルの不完全性定理はともかく)

事ほど左様に、考えれば考えるほどよく分からないのだけれども、似非科学は科学の基本の「観察」に欠ける気がする。観察がなくて、考察のしようないだろうと思うのだが、実際、どれだけの人が、この水の分子がどのくらいクラスター化されているというのを実際に観ることができるんだろうか?もっともらしい言葉が定義もなく並べ立てられるのを読んで、どれだけの人が理解できるのだろうか、と思わざるを得ない。

科学それ自体の欺瞞というテーマもあるが、これはまた別途。(←防備録として残しておく)

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