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2008年3月7日金曜日

毎日ブログを書いていると、見えてくることもある。

書かないときよりは、だんだん頭の回転が良くなってきているような気がします。ただ、最近気をつけないと〜と思うのが、記事の書き方とネタの取り上げ方です。

思ったまま書いているときと、読者を思い浮かべて書いているときでは、自分で読む限りは明らかに文体が違います。最初の頃は独り言に近かったので「だ/である」調でしたが、最近は自然と「です/ます」調が多くなってきました。一般に、主張する文章を書くときには「だ/である」調、話を聞いてほしい場合は「です/ます」調が多いような気がします。ブログでの文体の統一は良く言われる事ですが、はてさて、それが本当にいいのかどうか、とか。どうすれば誤読されずにすむかを考えてしまいます。できれば誤読はさけたいけど、相手が誤解するのはさけられないジレンマとでも申せましょうか。どーせ誤解されるんだったら、ブログなんだしそのまんまでもいいじゃないかとか。やけっぱち気味に書いてみたりする場合も無いとは言えないかもしれません。

ブログを書く人は、時には感じたままを、つまらないときはつまらない!と言いたい訳です。でもそれを「だ/である」で書いてしまうとかなりきつく感じる人が多そうだ、ということにまず気がつきました。それは誤解だと言いたいときもある。ただ、自分はそうだとおもっていることを述べただけなのに誤解されることもある訳です。なにが事実かまで争わなければいけない論争になると、それは論理学とか哲学の世界に入り込んでしまって、とっても面倒くさいから(それに大抵の場合プライオリティの低い事にいちいち反論している時間はない)そのままになっていることが多いのですが…

たとえば、最近ちょくちょく話題にのぼる「はてブ」のコメントですが、Geekなぺーじの方がこんなことを書いておられます。ちょっと長いけど引用させていただきます。

はてブコメントが偉そうだ | Geekなぺーじ
http://www.geekpage.jp/blog/?id=2008/3/6

はてブのネガティブコメントと向き合う必要性
(略)
オープンソースプロジェクトや標準化会議や学会などを見ていると、外国人の議論は率直である事が多いです。 その中に入り込むには、自分も率直になる必要があります。 何かに関して議論する時、白であるか黒であるかを理論的に反論できない人の意見は敗退します。

はてブは日本にありながら、率直な意見が出る場所であると思います。 そして、率直な議論の中で理論的であるかどうかが重要になります。 (ブログという公開の場で議論を行う場合も同様です。)

主張が本当に真実かどうかはさておき、より多くの人々を感化して、自分の意見に引き込めた人が議論に勝つものです。 特定の記事に対して、ネガティブな意見が多くつくということは、それだけマジョリティを感化できていない証拠だと思われます。 それは、表現が誤解されている場合もありますし、自分が間違っている場合もあります。 どちらも反省をして出直せば、プラスになります。

(中略)

どちらにせよ、ネガティブな意見が多く出るというのは、それだけで重要なフィードバックではあると思うので、そのフィードバックは使いようによっては活かせると思う今日この頃です。 (なお、わざとネガティブなフィードバックを集めてPVを稼ぐという、超プロ技も存在するようです。)


私はこの方の意見はもっともだと思います。学会や物作りの現場でのやり取りを聞いていたら、普通の人は卒倒する人もいるかもしれません。馬鹿な失敗をすればクソミソに言われます。それでも「だからどうした!」「おめーだって悪いんだよ!」くらいの気持ちでいないと反論も出来なくなってしまいます。打たれ弱い私は議論もよわよわのへたれですが、ちゃんとした物を作るためには熱い議論はもっとも必要な過程だということは理解できます。でも自分が言われたときはそれなりに傷つきます。だから『「はてブ」偉そう!』という人たちもわからなくもありませんが、偉そうなのではなく、限られたスペースではそういう言い方になってしまう物なのだという理解をしてほしいなと思います。

『「はてブ」偉そう!』と感じる裏には、「はてブ」は、携帯メールのやりとりに近い「誤読のしやすさ」という性質があるようです。私は、携帯メールや裏掲示板などで「いじめ」やかなりひどい「人格侵害」が起きやすいのと同じ原因があるような気がしています。

悪いときには悪いという。良いときには良いという。悪いと言われたときは、それは人格を攻撃することではなく、考え方や行動の結果が悪いのであって、悪い所を直せば No Problem 、という了解が日本の会話の中では少ないようです。表面的にとらえていては「一時が万事」というような評価が働きがちですが、それは指摘されたら直せば良い事で、直ったら深追いはしない。そういうルールに則って、もっと率直な議論を活発にしないと解決できないことは多いのではないでしょうか。

決して相手の人格を攻撃しているのではなく(極端な話、相手が不快に思えば「実際はどうあれ」名誉毀損になります)、何が悪いのか、どこがおかしいと思うのかが正確に説明するスペースが無いが故に、はてブのコメントは「なんか嫌な感じ」という誤読のスキを与えてしまうのかもしれません。「ググレカス」と一刀両断にされてしまうような初心者ならば、ネットにはそういう「言い方」があふれていることに気がつかず、「なんて酷い言い方なんだろう」と思う方もいるかもしれません。

ネット上では「視覚」や「聴覚」など、五感と言われる感覚のうち限られたものしか使えません。いずれその他の感覚も補われるのかもしれません。けれど、リアルに相対して話をする場合でも誤解を生じるときはあります。ましてや、ほぼ文字情報だけに頼らざるを得ない「ネット上の言論空間=ブロゴスフィア」であればこそ、ネット上の文脈であるとか文法があるという理解をみんながする時期に来ているんじゃないかと私は思います。それに、そういう作法があるということを理解しない人は、さらに誤解を重ねてしまう可能性もあります。(文脈とか文法とか、とりあえずそれがなんであるかは、いわゆる「ネット・リテラシー」とでも呼ぶものとしておきましょう)

誤解だらけの情報を流さないためにも、他人に向けて発信するブログを書く場合には、自分で考えうる形で言葉をつくして説明しなければとは思います。が、たかだか100文字程度しか書けない「はてブ」のコメント空間で、書いた人の考えが正確に反映されているとは思わない。ネガコメかかれたところで「それがどうした!」と開き直る気持ちと「なるほどね!」という反省の気持ちを半分ずつ持つというような、心のバランスは保っていたいものだと私は思うのです。

毎日読んだり書いたりして、自分で発信する時には「記事の書き方」と「ネタの取り上げ方」に注意して、それでも「誤読の可能性」があることを念頭に書かなければならないんだな、ということがだんだん実感できてきた、というわけです。そして、誤読されたら、反論しなければならないものもあるということに気がつきつつ、ヘタレさを発揮して反論しきれてない部分もまたあると…ブログを書いていくということは、そんなことの繰り返しなのかもしれません。

2 件のコメント:

干場弓子 さんのコメント...

書き手の姿勢による文体の違い、そうですね。わたしも感じていたところ。最近のビジネス書に「ですます調」が多いのも、より読者に近づこうという姿勢の表れでしょうか。勝間さんもそうですね。
 遅くなりましたが、ディスカヴァーの干場です。(旧インディ、新インディ、勉強法の)
その節は、新インディのカバー投票にありがとうございます。そして、さっそくご紹介くださって。

 はてなブログについての危惧も同感です。

Sio さんのコメント...

干場弓子様、

コメントいただきましてありがとうございました。

このエントリにコメントがつくとは思ってなかったので(^^; ちょとびっくりすると同時に、読んでくださる方がいて嬉しくなりました。書いて良かったです!

筒井康隆氏の言葉にもありますが「読者には誤読の自由がある」だろうし、私もそう思います。言葉から受ける印象まで作家自身がコントロールできる訳ではないですから。一方で、できるだけ自分の主張を明確に伝えたいという思いもあるので、なるべくなら誤読や誤解はさけたいなあ…とも思います。

表現を簡潔明瞭にすれば、なんとなく誤解をさけられそうな気もしますが、つっけんどんな感じを持たれるかもしれません。たとえば、池田信夫先生のブログは私は非常に興味深いと思って読んでいるのですが、枝葉の部分で騒がれてしまうのは、やはり「だ/である」調やちょっとした言い回しがきっかけなのかも…と考えています。ただ、同じ内容を「ですます調」で書いたら、池田先生ご自身らしくない文章になってしまいますね。

書き出したら止まらなくなってしまいましたが、情報リテラシーは専門(情報工学/科学、計算機科学)に近い基礎分野でもあるし、学生に教えるときには必ず教えなければいけない部分なので、非常に気になっています。大学新卒者では、あと2−3年は高校必修で「情報」を受講していない人がいると思うので、まだまだ個人差が激しい部分かもしれません。そこをどう補って行くのかは、自分の仕事の効率というだけでなく、情報化社会にどう「接続」していくかという点でも、きちんと検証しなくてはいけないのではないかと、無謀な事を考えています。一頃騒がれた「デジタル・ディバイド」は機会損失だけではなく、「情報の取り込み技術」「情報の発信技術」という人間が獲得しなければならないリテラシーにも関わる事なのではないかと感じています。

ところで…
ディスカヴァー21の書籍にはいつもお世話になっています。勝間さんの本をはじめとするビジネス書というだけでなく「中国古典の知恵に学ぶ 菜根譚」や「バルタザール・グラシアンの賢人の知恵」のような名著が再度復活して店頭に並んでいるのもいいなーと思っています。「水は何にも知らないよ」も面白かったです。それをきっかけに疑似科学の本を読み漁っています。

これからも良い本をたくさん出版されることを願ってやみません。