ロバート・キヨサキ氏の「金持ち父さん貧乏父さん」は言うまでもなくベストセラーだが、これを私が読んだのは、邦訳版が出版されてからずいぶんと後のことだった。最初は本の装丁がきれいだなあくらいにしか思っていなかったのだが、中身を読んで物凄く刺激を受けた。我が身を振り返って、自分の金銭に対する認識を改めないといかん!と思ったものだ。振り返ってみると、今ではいくつかの金銭的問題点を解決できた。自分の問題点を洗い出し、解決につながったことは、この本のお陰だと言っても過言ではない。以来、キヨサキ氏の著書が出ると必ず買うことにしている。
昨日本屋に立ち寄ると、彼の妻であるキム・キヨサキ氏の本「リッチウーマン―人からああしろこうしろと言われるのは大嫌い!という女性のための投資入門」が出ていたので、早速購入してその日のうちに読了した。
書いてあるところは夫ロバート氏の著作を読んでいれば取り立てて新しくないと思われるが(本当に大事なことはぶれないものだ)、彼女がどのようにして今の生活を手に入れたのかは非常に興味がある話だった。女友達との会話形式のやりとりの中にも学ぶべき事は沢山あるが、やはり、重要なのは「とにかく始めること」であろう。これは耳が痛い。いつもやらないことの言い訳を探している私としては特に…
他人は変えられないけど、自分は変わることができるという話は良く聞くが、確かにその通り。良い変化を続けたい。アメリカ固有の話も出てくるが、この本の骨子は日本でも十分通用すると思う。
どちらも、お薦めの本だ。とくに自分の生活に汲々としている人には是非読んでいただきたい本である。人生が変わるというのもあながちウソでは無いと思う。ただし、この本に書いてあることを少しでも実行できた場合に限るが…
Apple, Macintosh, MacOS X, iPhone 関係を中心に日々の雑感を書き綴っております. Herzlich Wilkommen!
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2007年7月18日水曜日
2007年7月11日水曜日
外来語の表記についての思い出
exciteの小ネタでこんなのがあった。
“コンピューター”と“コンピュータ”正しいのはどっち?
http://www.excite.co.jp/News/tb/News/bit/00091183909194.html
どっちでもいいじゃないか!と思うあなたは、ある意味正解だ。どちらでも良いというのがこの記事の結論である。
でも、ココで注意が必要なのは、記事にもあるが、JIS規格では3文字以上のカタカナ語の語尾についている長音記号「ー」は省略が原則であること。
さらに言えば、メーカー(これもメーカと表記しても良い)なり、ある書籍なり、情報の単位ごとに、用語が統一されている必要はある。(これは基本)
たとえば、マニュアル毎に「コンピュータ」と「コンピューター」が混在していては、読む側が混乱するということなので、大体は、メーカー毎に統一されているはずである。
と、いうような事は実は私は国語の先生ではなく、私の恩師の一人であるN村教授に、それは厳しく突っ込まれまくった。N村教授はJIS規格に深く関わっておられたので、その基準で学生のレポートを厳しくチェックされていた。カタカナ用語だけでなく「てにおは」から果ては句点・読点の打ち方まで、これでいーだろーと思って出したレポートが、真っ赤になって帰ってきたのを懐かしく思い出してしまった。なんで相当枚数ある卒業論文の最初と最後の用語の不統一が指摘できるのか、未だに不思議だ。
聞けばN村教授は、Donald Ervin Knuth米国スタンフォード大学名誉教授から小切手を受け取ったことがあるという…凄すぎる!
※クヌース先生の小切手の話は次を参照
※日本の先生方で、他にも沢山そういう方がいらっしゃるが、N村先生を含めて、誰一人として換金していないらしい。世界中を観てもだれも換金してないんじゃないだろうか?Computer Science界の一番の栄誉というのもうなずける。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「ドナルド・クヌース」の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/ドナルド・クヌース
Technology Review (by MIT)
http://www.technologyreview.com/Infotech/11960/?a=f
いまあんなに厳しく指導してくれる先生は居ないのではないか?ていうか、自分がそう有るべきではないのか?と思いつつも、実行できてないのが恥ずかしい…
いまだに用語の不統一甚だしいBlogなんぞを書いているあたり、もう一度気合いを入れ直さなければと思うのであった。
“コンピューター”と“コンピュータ”正しいのはどっち?
http://www.excite.co.jp/News/tb/News/bit/00091183909194.html
どっちでもいいじゃないか!と思うあなたは、ある意味正解だ。どちらでも良いというのがこの記事の結論である。
でも、ココで注意が必要なのは、記事にもあるが、JIS規格では3文字以上のカタカナ語の語尾についている長音記号「ー」は省略が原則であること。
さらに言えば、メーカー(これもメーカと表記しても良い)なり、ある書籍なり、情報の単位ごとに、用語が統一されている必要はある。(これは基本)
たとえば、マニュアル毎に「コンピュータ」と「コンピューター」が混在していては、読む側が混乱するということなので、大体は、メーカー毎に統一されているはずである。
と、いうような事は実は私は国語の先生ではなく、私の恩師の一人であるN村教授に、それは厳しく突っ込まれまくった。N村教授はJIS規格に深く関わっておられたので、その基準で学生のレポートを厳しくチェックされていた。カタカナ用語だけでなく「てにおは」から果ては句点・読点の打ち方まで、これでいーだろーと思って出したレポートが、真っ赤になって帰ってきたのを懐かしく思い出してしまった。なんで相当枚数ある卒業論文の最初と最後の用語の不統一が指摘できるのか、未だに不思議だ。
聞けばN村教授は、Donald Ervin Knuth米国スタンフォード大学名誉教授から小切手を受け取ったことがあるという…凄すぎる!
※クヌース先生の小切手の話は次を参照
※日本の先生方で、他にも沢山そういう方がいらっしゃるが、N村先生を含めて、誰一人として換金していないらしい。世界中を観てもだれも換金してないんじゃないだろうか?Computer Science界の一番の栄誉というのもうなずける。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「ドナルド・クヌース」の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/ドナルド・クヌース
Technology Review (by MIT)
http://www.technologyreview.com/Infotech/11960/?a=f
いまあんなに厳しく指導してくれる先生は居ないのではないか?ていうか、自分がそう有るべきではないのか?と思いつつも、実行できてないのが恥ずかしい…
いまだに用語の不統一甚だしいBlogなんぞを書いているあたり、もう一度気合いを入れ直さなければと思うのであった。
2007年7月8日日曜日
水の科学
近頃、疑似科学(pseudo science)の話題が良く出てくるな〜と思っていたら、知り合いもはまっていた(--;
ほとんど洗脳状態らしく、大丈夫かなぁ…と心配になっていたりするのだが、率直に指摘しても「これは違うから、是非試してみて欲しい」というようなリアクションでちょっと困った(汗
「ルルドの水」の話だったら、まあそういう話もあるわね、程度ですむ。人々の崇敬を集めたり、宗教的な意味合いがあるような物については、それ以上話を突っ込むつもりはあまりない。宗教的意味合いにまで他宗教の者が土足で入り込むようなマネはしたくないからだ。(うっかりすると戦争だし)
でも、宗教や科学に名を借りた、その実、売らんかな的な商売はいかがなものか。
そういえば、こんな東京新聞のコラム記事が有りました。
東京新聞 コラム 筆洗
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2007061502024295.html
科学と疑似科学の違いは、非常にメタな議論になるので難しいことこの上ない。私も未だよく分からない部分は多いのであるが、直感的には「科学は疑うことを推奨し、疑似科学は信じることを強要する」っていう所かなぁ…
科学の信奉者たる学者は、まず学生の時代に「自分の信じていることを疑ってみることを教育される」と言っても良いかもしれない、と私は思っている。だから、多少頭がおかしくなる人もいるし、どんな学生でも真剣に考える人は頭がおかしくなる時期もあるような気がする。(この辺は経験的に考えていることだが)
学者の議論は時に陰険で重箱の隅をつつくような議論になることがあるが、それは厳密な論理に基づいて検証されるべきであるからそうなるんだろうなと思っている。(別の見解もあるかもしれない)
まあ無矛盾に近くなるように…ということでやっているのかもしれない。時々これがしんどくなるので、かなり凹むこともあるんだが。(ゲーデルの不完全性定理はともかく)
事ほど左様に、考えれば考えるほどよく分からないのだけれども、似非科学は科学の基本の「観察」に欠ける気がする。観察がなくて、考察のしようないだろうと思うのだが、実際、どれだけの人が、この水の分子がどのくらいクラスター化されているというのを実際に観ることができるんだろうか?もっともらしい言葉が定義もなく並べ立てられるのを読んで、どれだけの人が理解できるのだろうか、と思わざるを得ない。
科学それ自体の欺瞞というテーマもあるが、これはまた別途。(←防備録として残しておく)
ほとんど洗脳状態らしく、大丈夫かなぁ…と心配になっていたりするのだが、率直に指摘しても「これは違うから、是非試してみて欲しい」というようなリアクションでちょっと困った(汗
「ルルドの水」の話だったら、まあそういう話もあるわね、程度ですむ。人々の崇敬を集めたり、宗教的な意味合いがあるような物については、それ以上話を突っ込むつもりはあまりない。宗教的意味合いにまで他宗教の者が土足で入り込むようなマネはしたくないからだ。(うっかりすると戦争だし)
でも、宗教や科学に名を借りた、その実、売らんかな的な商売はいかがなものか。
そういえば、こんな東京新聞のコラム記事が有りました。
東京新聞 コラム 筆洗
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2007061502024295.html
科学と疑似科学の違いは、非常にメタな議論になるので難しいことこの上ない。私も未だよく分からない部分は多いのであるが、直感的には「科学は疑うことを推奨し、疑似科学は信じることを強要する」っていう所かなぁ…
科学の信奉者たる学者は、まず学生の時代に「自分の信じていることを疑ってみることを教育される」と言っても良いかもしれない、と私は思っている。だから、多少頭がおかしくなる人もいるし、どんな学生でも真剣に考える人は頭がおかしくなる時期もあるような気がする。(この辺は経験的に考えていることだが)
学者の議論は時に陰険で重箱の隅をつつくような議論になることがあるが、それは厳密な論理に基づいて検証されるべきであるからそうなるんだろうなと思っている。(別の見解もあるかもしれない)
まあ無矛盾に近くなるように…ということでやっているのかもしれない。時々これがしんどくなるので、かなり凹むこともあるんだが。(ゲーデルの不完全性定理はともかく)
事ほど左様に、考えれば考えるほどよく分からないのだけれども、似非科学は科学の基本の「観察」に欠ける気がする。観察がなくて、考察のしようないだろうと思うのだが、実際、どれだけの人が、この水の分子がどのくらいクラスター化されているというのを実際に観ることができるんだろうか?もっともらしい言葉が定義もなく並べ立てられるのを読んで、どれだけの人が理解できるのだろうか、と思わざるを得ない。
科学それ自体の欺瞞というテーマもあるが、これはまた別途。(←防備録として残しておく)
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水
2007年7月1日日曜日
iPhone発売!
iPhoneが北米限定で発売された。いーなー。
早く日本でも発売してほしい。
バッテリーについては、いろいろ言われているようですが、
日本版では、バッテリーはその場で交換できるようになってくれればいいなと思う。
早く日本でも発売してほしい。
バッテリーについては、いろいろ言われているようですが、
日本版では、バッテリーはその場で交換できるようになってくれればいいなと思う。
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