一部数式がでてくるけれど、そこを飛ばして読んでも大丈夫だと思います。学校数学で「落ちこぼれる」原因となるものがわかる一冊です。私はこれを読んで、なんで自分の数学の成績が良くなかったのかが、なんとなくわかった気がします。たとえば、こんな例を著者は紹介しています。
その子は、自分で一から考えないと気が済まない質で、授業のときものテストのときも、公式を使うのを拒否し、自分ですべてを導出しようとするのである。そのせいで、授業で教員の話を聞かず我流にこだわる反抗的なこどもと見なされてしまったのだ。(p.30)
この例の人は数学オリンピックの予選も通るくらいの実力の持ち主だったそうです。もちろん私の場合、数学オリンピックに出られるような力は無かったし(それに日本が出場したのは私の学生時代より後)、なおかつ練習不足だった所為もあるけれど「経緯が似てるな〜」と思える所もありました。
私も公式を使ってあれこれ解くのは嫌いだったし(でも一切拒否するというものでもなかった)、なんでそうなるのかという公式ができる過程のほうに興味があったので、どーにも授業のスピードでは理解が追いつかなかった覚えがあります。今考えてみれば、ひたすら問題の解き方を覚えてしまったほうが楽だったにちがいないんだけど、それは今だから言える事で、当時は「そんなのは邪道だ!」ぐらいに思ってました(w
著者が本書でアメリカの経済学者の実証研究を引用した通り、私も学校教育での語学や数学の成績は、「創造性」「積極性」「独立心」とは負の相関を持つと直感的に思います。教えた通りにしない生徒、積極的すぎて教師に質問ばかりしている生徒、自分のやり方に固執して他のやり方を受け入れない生徒がいたら、その反対の性質を持つ生徒の方が成績は良さそうだな…と私の経験(教える側・教えられる側の両方)から思えるからです。
極端な事を言えば、これは数学だけの話ではなく、今の「ゆとり教育」に関する議論にも影響を及ぼすことだと考えています。本来、「ゆとり教育」の目標としていたことは、「総合的な学習の時間」の趣旨とねらいに代表されるような、生徒の「創造性」「積極性」「独立心」を育むことであったでしょう。しかし、この本の著者である小島氏の弁を借りれば、私は「学校教育」というものの性質と負の相関をもつものであり、そもそも従来の枠組みでは実現できない、かなり無理な教育手法であったのかも知れない、と思うのです。
私はどちらが正しいとか間違っているとか、そういう事がいいたいわけではありません。しかし、違った枠組みのものを導入するのであれば、それは慎重かつ丁寧な準備をした上で、予算を十分に撮った上で行わないと、効果のない「総合学習」の時間が増えてしまうだけだと思うのです。しかも、それを行うには、学校の先生方は忙しすぎると思いますし、かつ、現在多くの行政が行おうとしている事=教育予算の削減は、PISAの成績をみんなが気にするのであれば、それでは行く方向が違うと思わざるを得ません。
「創造性」「積極性」「独立心」を持つ事は、それはいいことだと私は思います。みんなそう考えたからこそ「ゆとり教育」を学習指導要領の柱としたのでしょう。ならばなぜ、その理想を追求しようとはしないのか。もちろん、社会に出てからの如才のなさ、うまいコミュニケーションの取り方も学校教育のなかで身につけられればいいでしょう。しかし、大変だし原因もわからないしお金もないから、やっぱり元に戻そう的な論調に傾きつつある「ゆとり教育」批判には、私は異を唱えたいのです。
数字を理解する術が自分の中にない生徒の苦悩は計り知れませんが、数字を理解できる能力を持った者でさえ、数字でつまづき、数学でつまづく。学ぶ能力もさることながら、学びを乞う者に惜しみなく知識を与える教師が十分に必要でしょう。今の教育をとりまく問題解決のために必要なのはその「ゆとり」なのではないか。水の中から「泳ぐ能力」を引き出す能力をもった教師が今こそ必要なのではないか。そんな事をこの本を読みながら考えたのでした。
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